平成24年10月22日 第5回東日本大震災報告・研究会 報告

常勤講師 佐々木 大樹

 10月22日、奥野真明師(埼玉第4教区・清蔵院中、智山年表編纂委員)を招き、「陸前高田 金剛寺の被災状況と今後の展望」と題して、第5回目の東日本大震災報告・研究会が開かれた。金剛寺(岩手教区寺籍2番)は、陸前高田市気仙町にある本宗寺院で、現住職の小林信雄師は、奥野師の遠戚にあたるという。奥野師は震災発生以降、同寺を五度訪れており、その被災から今日に至るまでの経緯を、スライドを用いて詳細に報告していただいた。

①金剛寺の歴史および寺格

 金剛寺は仁和年間(八八五~八八九)に創建された元天台宗寺院で、後に本宗に改宗したと伝えられる。江戸・明治時代における同寺の寺格は高く、「常法談林」に位置づけられており、有力な地方寺院のひとつであった。それを裏付けるように、境内には江戸時代に建立された大きな本堂を中心に、不動堂(気仙成田山)・聖天堂・位牌堂・楼門・蔵・光輪館の諸堂や、境内奥には日本百観音・四国八十八カ所霊場お砂踏み等が配されていた。また同寺中には、貴重な史料・聖教類も数多く所蔵されてきた。

②大震災・大津波の発生と経緯

 震災当日の3月11日、金剛寺には住職が不在で、寺族3名のみがいた。大震災の発生直後、寺族は余震の続く中、近隣では最も高台にある不動堂に避難したところ、大津波が襲ってきた。付近の住民も、不動堂を目指して集まり、すぐに避難者は70~80名になったという。その夜は、被害が軽微であった近隣の檀家宅に蓄えられた食料・燃料をもとに炊き出しを行い、小雪の降る中、野宿を余儀なくされた。翌12日には、道なき山中を歩いて半日のところに避難所が設けられ、また自衛隊ヘリによる救出も始まった。しかし、行方不明の家族の捜索や、流出した家財道具を守るため、何人かの住人は不動堂に残り、寺族もご本尊等を守るため留まったという。同月14日には、自衛隊による不明者捜索が始まり、少しずつ道路が開通していった。同月20日頃より、近隣の本宗教師や本山職員が同寺を訪れるようになった。奥野師も、4月1日に初めて訪れたが、現地は窃盗を防ぐためか「立入禁止」の看板が立てられ、同寺に行き着くまでには様々な困難があったという。

③金剛寺の被災状況

 境内は不動堂をのぞき、本堂や客殿・庫裏(震災前年に再建)および仏像・仏具等は、津波によって流出・破壊され、堂前には3m近い瓦礫が堆積していた。その瓦礫の山からは一遺体も発見された。兼務の泉増寺では、倉庫・子安観音堂・参道階段の一部が津波により流出した。金剛寺所蔵の聖教類については、大半が見つかったが、海水に浸かったため、振れば塩や泥がおちる状態であり、その修復・保存のめどは、いまだ立たないという。

④金剛寺の現状と展望

 現在、金剛寺境内には仮設住宅や電信柱が建てられ、光輪館の跡地には、ボランティアによる「成田の湯」が設けられた。また震災以後、宗内外の多くの僧侶が同寺を訪れたが、特に大本山成田山新勝寺には、十数回にわたり訪問いただき大変お世話になったという。 4月18日以降、住職と寺族は、山間にある円城寺住職の好意により同寺に仮住まいし、少しずつ金剛寺等の復興・檀信徒の教化を進めている。例えば仏壇の配布、月二回の御詠歌の実施、自宅や墓前での法事、大施餓鬼会等を行ってきたが、いまだ復興までの道のりは長く険しいという。檀家のうち126名が死亡・行方不明となり、檀家の九割が住居を失って仮設住宅で暮らしている。平成30年頃までに12mあまりの防潮壁を作り、町全体を5~8mかさ上げする計画もあるが、住民(特に若い人)が再び定住するか、その見通しは厳しい。

 

 寺院は地域住民の心のより所であり、その復興なくして地域全体の再建も難しいように思われる。本宗では、被災寺院の声に耳を傾けて、積極的に被災地のニーズを探り、宗団を挙げて息の長い支援を行う必要性を感じた。